小山絵里奈 OFFICIAL WEB

PROFILE

「小山絵里奈の音楽を初めて耳にした時、
そのユニークな才能にぶっ飛んだ」
生まれて初めて作った曲
「Dance withTarantula」が
坂本龍一の耳にとまりその場で
プロになる事を勧められる。
その後、
坂本龍一エグゼクティブ・プロデュース
ミニアルバム「INLY」でデビュー。

2007年、マスタリングエンジニアに
Ted Jensen、MIXエンジニアに
坂本龍一, ZAK, 竹村ノブカズらを
起用したアルバム「VIVIDROP」を発表。

2008年、作詞作曲・レコーディングから
ミックスまでをも自らで手がけたアルバム
「NOMMO」が6月、iTMSなどで配信発表。
また「INLY」「VIVIDROP」「NOMMO」の
楽曲も入ったオリジナル・コンパイル版が
7月末に全世界26カ国配信発表。

2009年3月、フランス、ニームで開催される
日本の多様なアートを紹介する
ヨーロッパ最大のフェスティバル
「LEX2009」に出演。

CM、ドラマ、映画音楽など様々な音楽を
手掛け、自ら考案したハンドメイドの
ピアノカリンバによる演奏など
豊かな歌声、響きを奏でる。







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INTERVIEWER

小山絵里奈がいろんな先輩達に会いに行く!


今回は、楽器職人であり作家の暁天さん。
小山絵里奈が、アフリカの民族楽器であるカリンバを探し求めていた時、
ちょうどTVで「ぶらり途中下車の旅」という番組で、暁天さんのアトリエが紹介されていた
のを見て、これだ!と導かれた。即、暁天さんアトリエを訪ね、小山のイメージにあった
ピアノカリンバをオーダーメイドで作って頂き、後にその音色による音楽は、
フランス国営放送 arteで放映されたり、 日テレ土曜ドラマ「Q10」などでも起用される。


(1)

<<香川県漆芸研究所〜 漆>>


小山:漆を扱う学校?(香川県漆芸研究所)に入られたきっかけってありました?

暁天:んー、一番の理由は、、ま、バカだったから。

小山:うそーん。でも「漆」というものになんか惹かれたとか。

暁天:まあ漆は、香川の名産地なんで、ちっちゃい頃からはなんとなくそういうのは
暁天:目に触れてたけども。特に興味はなかったね。
暁天:とにかく研究所は、まあ一日中物作りができるっていうので選んで。
暁天:だから別に夢も希望もないし、伝統工芸なんてなんとも思ってないよね。

小山:勉強はしたくねえと。

暁天:うん。で、まあ、とんでも無い高校でね、ほとんど男子校に近いとこで、
暁天:しかも出来の悪い男子校となってくると、もう自分の時代は「不良」だよね。

小山:暴力的ですか。

暁天:暴力的で不良と悪の巣窟だよね。

小山:あわー

暁天:中学生なんか無菌状態だから、それで入って、、どうしようと思ったよね。殺されると。
暁天:入学式が終わってから、早速先輩から一年生みんな呼び出し食らうんだけど。
暁天:塗り部屋っていう四畳くらいの
暁天:狭い部屋があるんだけど、そこに一人ずつ呼ばれて、何されるんだろう、ってかんじで。
暁天:で、オレの番がまわってきて、、部屋に入っていって。で、そこで木のハンガーを
暁天:バシバシやってる奴がいたり、さらし巻いて短刀さしてる奴がいたり
暁天:そり込みいれてる奴とか12、3人くらいその狭い部屋にいて。で、まず、
暁天:正座しろっていわれてもう即、正座だよね(笑)で、何を言われたかというと
暁天:朝、ちゃんと先輩に挨拶をすること、あと、先生に対してちゃんと礼儀を守れ
暁天:とかなんか随分真っ当なこといってんだよね。それだけだったんだよね。

小山:えー!わたしは、ばっちこーい、みたいなことだと、てっきり、、

暁天:まあ、縦社会みたいなことを教えられたっていう。
暁天:あとから見れば優しい先輩だったんだけどね。怖くてやめてった子もいたけど。

小山:短刀さしてるし、、
暁天:でも、まさか、漆芸研究所でそんな怖い男子縦社会のストーリーが渦巻いてるとは、
暁天:誰も思わないですよね。伝統工芸を学ばず、男社会を学ぶの巻き。

暁天:わけわかんなかったよね、だから面白かった。毎日面白かった。

小山:すごい。じゃ、その当時は、今こうしていることは結びつかなかったですか?

暁天:当時はね。全く結びつかなかったけど、あとからみれば、全部必要で
暁天:つながってくるんだけどね。
暁天:漆の技術があることで、どんだけ助かったかという。こういう楽器作ってて、漆使う人って
暁天:あんまりいないから。

小山:普通は、どんなものでコーティングしてるんですか?

暁天:吹きつけで、ウレタンとか、FRPとか。でも体に悪いんだよね。ニオイもすごいし。
暁天:漆は、かぶれるし、扱いが繊細だけど、でもそっちのほうがいいね。

小山:卒業制作とかあったんですか?

暁天:ありますね。大体一年くらいかけて何作か作って、文化祭の時にそれを売るという。
暁天:時間かけるから、かなり重厚なものができるんだよね。
暁天:だからあっという間に売れちゃう。文化祭の販売日に、買う人たちが研究所の前に
暁天:並んじゃってて。それも投票制になってて
暁天:抽選で買える人が決まるっていう。いい作品には投票が多くて。

小山:暁天さんはどういうものを作られたんですか?

暁天:茶托とか、硯箱とか。一年かけて作るから、漆塗るのも半年くらいかけたり。
暁天:でも、ちゃんと漆を勉強したのは、卒業した後なんだよね。
暁天:漆のすごさをわかってなかったから。
暁天:学生の頃は。東京に出て来た頃、漆のことがわかんなくなって、で、里帰りしたときに
暁天:研究所に行ってこれどうやってやるの?って聞きに行ったり。
暁天:まあ、手間がかかるし、漆はほんと大変だけど。

小山:でも、漆にしか出せないものが。

暁天:絶対あるよね。やっぱ重いんだよね。重厚な。200度くらいにも耐えられるし。
暁天:薬品とかにも平気だし。強い。自然塗料の中でも相当レベルの高いものだよね。
暁天:今、中国製が多くて安いけど、質は悪いよね。それに比べ国産は高いけど
暁天:でも日本の厳しい春夏秋冬を経ているからか、質がいい。

小山:ああ。


<<<研究所卒業後〜>>>


暁天:漆制作は最初、イラストレーターになった頃は漆で絵を描いたりもしてたんだよね。
暁天:アート的な。漆の伝統作家っていうのは、どうしても伝統なんだよね。
暁天:それは、自分にとってはつまんないと。

暁天:研究所を卒業した後、上京する資金を得るために、一年間、漆の仕事をして
暁天:お金が貯まった後上京して東京のデザイン学校に、二年間行くんだけど、、
暁天:レベル低かったね。
暁天:東京のデザイン学校って事で期待してたんだけど。単に大学行けなかった連中が
暁天:集まっている様な感じで、既に研究所でやった事の低いレベルをやっている様な。
暁天:
暁天:研究所は、人間国宝も教えに来るくらいのレベルだったから。
暁天:最先端の事を教えてくれてたからね。
暁天:それも知らずに。まあでも楽しかったから二年間いたんだけど。課題とか大変だったけど。
暁天:リアリズムの勉強で、写真そっくりに絵を描いたり、そこでデッサン力をさらに
暁天:磨いたんだけど。
暁天:あと、好きな作家の絵を模写しまくったり。その技法を先生は知らないから、
暁天:自分で本読んで研究したり。それで、学校と併行してデザイン会社にアルバイトに
暁天:行ってたんだけど、たまに、そこで課題なんかやって、先生に持っていくと
暁天:何これ!って驚いちゃうんだよね。そりゃプロと一緒に作ってるんだから驚くよね。
暁天:そんなこんなで、デザイン会社に就職しに来なよって声かけられるんだけど
暁天:逃げたんだよね。デザイナーじゃなくてイラストレーターになりたかったから。
暁天:それを社長に正直に言えばよかったんだけど、かわいがってもらってたから、
暁天:なんか言えなくてね。
暁天:まあ、それで結局5、6年経って、イラストレーターとして実績を積んだあたりで
暁天:顔出しにいったんだけどね。ども、こんちは〜!ってかんじで(笑)
暁天:暁天:暁天:暁天暁天::
暁天:で、イラストレーターとしては、けっこういい線までいったんだよね。
暁天:もう一歩ってとこまでいって。
暁天:メジャーの雑誌もほとんどやって、大きい企業のポスターとかカレンダーなんかもやって。
暁天:集英社の人からも画集だしなよ、なんて勧められたり、絵本の話とかもあったり、よし、
暁天:ぼちぼちこれで、となってきた矢先、なんか、空しくなっちゃって。何か違う、、と。
暁天:なんだろう、このつまんなさ、というか。もう少し頑張ればよかったんだけど、その前に、
暁天:オレのやりたいことはこんなことじゃなかったはずだ、と思い始めて。イラストやってる
暁天:途中、節々でも、そういうもやもやはあったんだよね。
暁天:その度にアフリカ行ったりインド行ったり。ぶらぶら旅しては
暁天:帰ってきて。自分探しってやつですね。スケッチブックとギターとヌンチャク持って。

小山:ヌンチャク。

暁天:ヌンチャクは護身用ですね。まあパフォーマンスだけどね。ブルースリー流行ってたしね。
暁天:スケッチブックは、絵を描いて誰かに見せれば友達になれるし、
暁天:ギター弾けば、友達になるし、けっこうそれでタダ飯食ったりタダで泊まらせて
暁天:もらえたりね。で、まあ20代の頃は旅しまくりで。でも自分の絵は見つからないよね。
暁天:そんなかんじで、レギュラーでイラストの仕事しながらも、旅いっちゃって。
暁天:でも帰ってくると出版社は、待っててくれてるんだよね。

 
小山:暁天さんの絵を相当気に入ってくださってたんですね。

暁天:気に入ってくれてたのか、なんなのか。あと、用もないのに集英社とかにいって
暁天:ゴハンつれてってもらったりね。名物編集長やなんかもいたりして、
暁天:のみにつれてってくれたり。なんかそんないい時代だったんだよね。

小山:へえ。イラストの仕事というのは、なにか「お題」を出されるんですか?

暁天:出されますね。その時の時代背景、社会的な、政治的問題を出された場合、
暁天:それを一コマ漫画みたいに読者がすぐわかる様に表さなきゃいけないよね。

小山:じゃあ、求められるものはだいぶピンポイントなんですね。

暁天:うん。編集長が良いって言うまで10回くらい書き直したり、
暁天:その度に寿司つれてってもらったり。その時は、とにかく交通費もギリギリだったからね。
暁天:原稿料前借りしたりとか。まあ働けばいいんだけどね。でもその時間があったら
暁天:絵を描いたり旅したり、そっちに時間をまわしたいから。いかに好きな事に時間を
暁天:割くかっていう。まあいい時代だったんだよね。お金がなくてもそれを楽しんでたね。
暁天:まわりも何人かそういう仲間がいて、みんな、なんか言ってたよね、
暁天:やあ、なんか楽しいね〜とかって。ほんとみんな楽しんでんだよね、
暁天:お金が無いことを。
 
小山:編集長もいるし。

暁天:編集長もいるし(笑)

小山:その時代のお金が無い空気と、現代のお金が無い空気って全然違いますよね、たぶん。

暁天:違うんだよね。なんだろ、夢があるし、希望があるから。
暁天:ん〜、お金が無くて楽しめるギリギリの時代だったのかな。
暁天:丁度、高度経済成長期が終わった頃位なのかな。とにかくお金がなくても楽しくて、
暁天:みんな笑ってんだよね。悲壮感なんてまるでなくて。
暁天:安酒買ってきて七味入れたりして仲間と呑んでは、ベロベロに酔っぱらったり、、、



<<<音楽話>>>
(2)





::::::::::::::::::::::::::

小山:おもしろい二十代〜。ところで、旅をされてた時にギターを持って
:::いかれてたじゃないですか。楽器に興味持ち始めたのはいつ頃なんですか?

暁天:中学、、、中学2年の時にモーリスのギターを親に買ってもらったんだ。

小山:ご兄弟かどなたかが楽器を演られてたりは?

暁天:兄貴が、、ちょっとやってたのかな、でも飽きっぽいタイプでほとんど持つだけって感じで
:::全然触らせてくれなくて。仲悪かったからね。で、こっちもギター買ってもらって
:::はまっちゃったね。バンド活動で。地域のサークル入って、毎日ギター弾いてね。
:::あの頃は、神田川とかかぐや姫とか。

小山:フォークソング。

暁天:フォークソング。東京では丁度そういうのやってたんだよね。
:::フォークジャンボリーだとか。あと、ベトナム戦争を歌で訴える事が終わりかけてた時
:::だったと思うんだよね。そんなんで、赤提灯とか、キャベツばかり囓ってたとか
:::そういう時代で、学生とかもみんな貧しくて東大紛争とかもやってて。
:::ギターやって、バンド組んで、研究所に入って更に音楽仲間が増えていって。
:::気に入った曲はどんどんコピーして。歌がほんと上手い奴が一人いたから、
:::いろいろやって。ファンクラブまであったからね(笑)

小山:うおー!すごい!

暁天:なんか、「てるてるぼうず」っていうバンド名で。

小山:(笑)ずいぶん、オチャメですね。

暁天:バンドでは中心のポジションとしてやってたから、コピーした曲の各パートをそれぞれ
:::自分が習得して、みんなに教えて。

小山:バンマス。

暁天:で、ある時、イエスタデイをやる時に、なぜか、フルートを入れたくて
:::中古のフルート買ってきて、ずっと練習して。

小山:てるてるぼうず+フルート

暁天:昔からやりたいと思った楽器は全部やった。その時は民族楽器の存在すら知らなくて。
:::だからギターやベースとか。で、東京来てからは、ぴたっとやめたけど。
:::まあたまにギターをぽろっと弾くくらいで。それこそ学生の頃は、合気道、
:::朝は道場行くんだよね。たまに稽古さぼったけど。で、学校行って
:::夕方ちょっと休憩して、夜間、また学校行って、その後公園か墓場で
:::ギターの練習してっていう。なんかすごい過密スケジュールで。

小山:誰に言われたわけでもないのに(笑)
:::それで、イラストレーターからどういう風に楽器職人の方向へいかれたんですか?


<<<カリンバとの出会い>>>


暁天:えっと、スランプが何回かありつつ、旅したりで、自分はこのままイラストを
:::続けていくべきなのかなっていう。イラストって結局イラストが中心じゃないんだよね。
:::例えば映画で言うと、まあ作り物でしょう。本物じゃないんだよね。
:::何かを見せるための裏役っていうか。それと同じで。しかも月刊紙とか週刊とか、
:::それが終わってしまえばお仕舞いだし。
:::その一時的なものに人生かけていいのかなって、もう悩み始めちゃってね。
:::で、そんなことやってるうちに自分の絵がどんどん描けなくなっちゃって。
:::それで自分の絵は作家でもないしイラストでもないし中間の所に自分の絵があると
:::認識されててどちらにもいけないんだよね。かといって、飯食うためにはイラストレーター
:::やんないといけないし。でも完全な純粋な絵を描くといっても、まだ見えないんだよね。
:::どういう絵を描いていくのかっていう追求が見えないし、
:::大体みんなそこで苦しむんだけどね。絵を描く人っていうのは。
:::それで、旅してたらカリンバに出会っちゃったんだよね。

小山:屋久島でしたっけ?

暁天:屋久島でね。種子島に住んでる知人が遊びにおいでよって以前から言ってくれてたんだけど
:::ずっと行って無くて、でもその時なぜかふと、行こうって思って。
:::それで不思議なもんで、種子島行こうと思った時に丁度、その資金となる仕事が
:::舞いこんできて。
:::それで、その仕事を終えて、すぐ種子島に行くんだけど。
:::なんかね、アルケミストっていう本を以前、友達にもらって、
:::ずっと読んでなかったんだけど、種子島に向かう迄、そのアルケミストを
:::読んでて、丁度読み終わった頃に、種子島に着いて。それでそこで、居候して。
:::一ヶ月くらい絵を描いたりして。
:::そこの人に、屋久島の人を紹介されて、屋久島へ行って。その山を登ってる時に.......
:::あの、なんか、昔聴いた話なんだけど、
:::海っていうのは、波がざーっときて引いていく所にいると体を
:::全部浄化してくれるんだって。で、山っていうのは、エネルギーを与えてくれると。
:::::::::::::::
:::で、後から考えてみると、種子島で、既にその浄化をやってて、次の屋久島で
:::エネルギーが入って、体が出来上がったんだよね。
:::それも、なんていうか全部導かれた流れというか.....その時は意識してないんだけど。
:::それで、ずーっと山を登って行った時に、なんか、山の意識がわかるんだよね。
:::山が言おうとしてることがわかって。蜂なんかも飛んでくるんだけど、蜂の意図とかも。
:::すごい敏感になってて。それで、ずっと登って行った時に山に対する、畏怖をすごく感じて
:::ここで山に対して失礼な事をしたら、一発で飲み込まれてしまうって感覚がものすごく来て
:::でもこの山を尊重してると絶対大丈夫だって確信があって。守られるっていう。それで
:::頂上あたりまで登って、下って、花山歩道っていうのがあるんだけど、そこはほとんど
:::人がいなくて迷ったら神隠しみたいなとこなんだけど、そこを歩いている時に
:::風が、ばーっと吹いてきたんだよね。風の動きが見えるんだよね。それで、丁度
:::自分の真上に風が来たときに、風が体にぶわーって入ってきて。
:::あ、今、体に風が入った、って思った瞬間に、なんだろうな、絶対神っていうか、
:::安心感ていうか、もう「ぬける」っていうかね、そういう感覚がふわあっと来て。

:::それで、一泊して、降りてラーメン屋で飯食ってたら、白川村を紹介されて
:::そこに行って、また三ヶ月くらい居候するんだけど、そこはなんか自分たちで建てた
:::家に住んでる人達が何人かいて。それでその一人の所に招待されて行って
:::暗い道を懐中電灯を照らしながらその家まで行って。
:::そしたら時代劇に出てくるような木の家で、囲炉裏があって、川から水道をとってて、
:::ランプの光が、ぼわあってなってて、そこで、囲炉裏の前で、なんか焼べてて、
:::「あ、いらっしゃい。」とか言って、おっさんがいて。コウスケっていうんだけど、
:::それで彼と色々話してるうちに、こんなの知ってるー?ってポロンポロンって
:::弾き始めたのが、カリンバだったんだよね。
:::それがなんと素晴らしいことかって。シチュエーションも良かったんだけど。
 
小山:(頷く)

暁天:その屋久島の山の中で、そういう生活をしている人の奏でる音がもうピュアなんだよね。
:::で、おおっ!と思って、何これ?って言って。カリンバっていうから。
:::実際アフリカでは見てたけど、そのアフリカのカリンバとは暖地の差なんだよね。
:::彼自身の人間性もあるかも知れないんだけど、彼の出す音っていうのが、
:::また凄いんだよね。がーんと来て。なんか、山の人みたいな。山の民みたいなサウンドで。
:::で、この楽器いいなあって言ったら、じゃ作る?とかいって。え?作れんの?
:::うん、作れるよって。(楽器を)作る概念無かったからね。
:::じゃ、明日、海岸行って椰子拾ってきてよって。それで海岸行って
:::椰子の実拾ってきて、皮を剥がして、切って、中身出してカリンバを作るんだけど。
:::自分も今まで物作りやってきてたから、コウスケの作業を見て、見よう見真似でやって
:::そこでカリンバ第一号が出来て。それをずっと弾きながら旅して。
:::::::::
:::それからまた2ヶ月くらい居候して、それでそろそろ千葉へ戻ろうってことで、
:::屋久島から種子島、種子島から飛行機に乗るんだけど。
:::::::::
:::もう、その帰る途中から、見えないものが見え始めるんだよね。
:::見えないものっていうのは、光ってるものと光ってないものっていうのがわかって。
:::すごい敏感になってるから。
:::で、ほとんどの人間は、灰色に見えるの、全てが。無気力と、無着色の世界なんだよね。
:::グレーの世界。今まで見たことない。で、たまに、ふわってカラーのものが
:::あったりするんだよね。遠くにいてもカラーってわかるんだよね。光っている人は
:::カラーに見えるの。それが東京に戻っても、10日くらい続いたかな。そういう現象が。
::::::::: 
:::それから、イラストの仕事を全然やんなくなっちゃってね。来てもやんないんだよね。
:::それで、その後はカリンバの研究に入っちゃってね。貯金食いつぶして、カリンバばっかり
:::毎日作り続けて。朝起きてカリンバ作って、夜寝るまで作って。その時の心境っていったら
:::お金はどんどん無くなっていくんだけど、朝起きたら、またカリンバを作れる!って
:::それだけで嬉しいんだよね。寝る時に、明日もカリンバ作れる!って(笑)
:::夢の中で、研究してんだよね。それが、楽器作りのスタートだよね。
:::それでまた不思議なもんでやっている間に、カリンバ、うちで売って、とか教えてとか
:::個展やんない?とか自然に周りから来始めるんだよね。
:::こちらは、全くカリンバで食えるとは思ってないし、話が来るとも思ってないし、
:::ただ作りたくて作るだけで。ただ確信があったのは、今までにカリンバを作る人は
:::何人か居るけど、この人達が作ってない、自分だけの世界が絶対出来るって思ってて。
:::それで飯が食えたらいいなっていうのは、まるっきり無かった。ただ、嬉しいだけで。
:::人生180度変わっちゃったから。初めてじゃないかな。物作りの喜びを知ったのは。

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2008 カントリー&ウェスタン・シンガー トミ藤山さん

(1)

今回はカントリー&ウェスタン・シンガーのトミ藤山さん。小山絵里奈とカントリー?とお思いかもしれませんが、実はこのお二人、昔からの深い縁で結ばれていて、一緒にステージに上がったこともあるとのこと。小山絵里奈が音楽や歌うことについて深いところまで大先輩と語り合う、読み応えある対談になりました。

——トミ藤山さんは1953年にデビューされて、すでに半世紀以上、カントリー&ウェスタン歌手としてのキャリアをお持ちです。大先輩に敢えてお聞きしたいのですが、カントリーの魅力はどのようなものでしょう?

そうだね、今のカントリーはちょっと違っちゃっているけれど、昔のカントリーはね、素朴な良さがあったわね。ハンク・ウィリアムス、ハンク・スノーといった人達が、素朴にギター一本でポロンと歌っていたようなもののことね。もの悲しいような美しいメロディと美しい詞で、平和で夢のあるような、ロマンティックな詞が多かったの。1960年代終わりくらいからは、ベトナム戦争に対しての反戦や世相を歌った歌が出てきたのよね。私はそれ以前のロマンティックなものが好きで、それが好きでカントリーに入ったの。

——一方でトミさんは民謡や日本の音楽にも造詣が深くいらっしゃいますが、日本の音楽の魅力についても教えて頂けますか?

自分のことを話すほうが早いかな。私は名古屋生まれで、近所には中村遊郭があったのね。だから周りには三味線やギターを持った流しの人がいたり、三味線のお師匠さんがいたのよ。三味線の音を朝から晩まで聴きながら私も弾きたいなあと思っていたのを覚えてる。そのうちに市丸●●●さんや小唄勝太郎さんといった方々の歌を聴くようになって、“こぶし、ころびっていいものだな”と思うようになった。子どもの頃からそういう日本調歌謡曲が好きで、だんだんそういう歌を歌うようになっていたの。

——もともと身近なものだったんですね。

それで、私たちの世代が憧れたのは美空ひばりさんですよ。ある時、私が豊橋で歌っていたら、楽屋に“東海の美空ひばり”って子がやってきた。その子が大津美子さんだったんですけど、あのね、その頃は、全国的に美空ひばりがいっぱいいたの(笑)。美空ひ「は」りとか美空「こ」ひばりとか青空ひばりとか(笑)。とにかくお客さんに勘違いさせる(笑)。話飛んじゃったね。あれ、なんの話だったっけ?

——(笑)日本の音楽の魅力、なんですけれども。

(手を叩いて笑う)ああそうだった。ごめんね。とにかく、美空ひばりさんが好きで歌うようになったのね。今、日本調の歌を歌える人って実はいないのよ。ほとんどいない。さっきの市丸さんや小唄さん、赤坂小梅さんとか、“鶯芸者”と言われていた人たちの歌い方、それは“こぶし”じゃなくて、“ころび”という唱法なのね。民謡でコロコロ転がすのが“こぶし”、日本調の場合は“ころび”って言うの。それが私は好きで、それに合わせて、私、自分の著書を『ころび転ぶよ音楽人生』と名づけたんだけど、その“ころび”は実際に転ぶっていうことじゃなくて、その日本調の唱法のことなの。でもね、本出してから3回ほど実際に転んだんだ(笑)。骨も折ったしさ(笑)。本のタイトルが良くなかったね(笑)。あれ!また話が飛んじゃってない? ごめんね! なんの話だったっけ?

——(笑)なんでしたっけ? えーと、こうやってお話を聞いていても私が知らないことばかりなので、改めて、トミさんのこれまでの歩みについてお話し頂けますか?

はい、わかりました。私は1940年生まれ、昭和で言うと15年の生まれだね。東京に出てきたのが13歳で、14か15で米軍基地を周り出したんだ。米軍基地ではカントリーが喜ばれるから、そういう歌手やバンドがたくさんいたの。小坂一也、ジミー時田、黒田美治とか、それこそいかりや長介さんのドリフターズとかね。彼らはとっくに大学生で、カントリーが好きで基地で演奏しているうちにプロになってちゃったという感じだったね。その頃の日本のカントリーバンドはみんな上手かったし、すごく良かったのよ。やっぱり、若くて燃えてたわよね。

——ドリフターズというと、あの『8時だヨ全員集合!』のドリフですよね?

そうよ。あのドリフターズには前身があって、彼らは桜井輝男(ドリフターズ2代目リーダー)とドリフターズという、カントリー専門のバンドだったの。それが長さんが入ったりジャイアント吉田さんが入ったりで、最終的にはマウンテン・プレイボーイズというバンドになったのね。それがいろいろあってナベプロに彼らがドリフターズとして入って、コミック路線で『8時だヨ全員集合!』に出ることになったの。マウンテン・プレイボーイズのほうは寺内タケシとジャイアント吉田が出て、吉田さんは小野ヤスシさんとドンキーカルテットを作って、とか、いろいろあったのよ。当時のコミック路線はクレイジー・キャッツが有名だったけど、ドリフターズはその後を継いだということになるのかしらね。

——知らなかったことばかりです。トミさんの本を読ませて頂くと、ベトナム戦争中にベトナムに行って慰問演奏をされていたというエピソードがあって、とても印象的だったんですけれども。

あの時はねえ、ベトナム人と間違われたんだ。同じアジア人で、目も髪も同じですからね。基地のゲートでパスポートを見せろって言うんだけど、私がベトナム人のゲリラなんじゃないかと疑ってくるわけ。ベトナムは米軍にとって敵だから、ベトナム人はもちろん簡単には基地には入れない。でもそれじゃ仕事にならないから、私はベトナム人じゃない、日本人なんだって頑張るんだけど、なかなか信用されないんだ。まあ、最終的には入れたんだけどね。

——大変ですね……。

あのね、ベトナムに行って一番困ったことはね、私はどっちの味方なのかを考えさせられたことだね。アメリカ人の兵隊さんのための慰問で行ってるから、私はもちろんアメリカ人の敵ではない。でも、ベトナム人の敵でもないわけ。仕事で歌を歌ってるだけで、どちらの味方でもないし、どちらのスパイにもなりたくない。
でもね、ある時、アメリカの兵隊に“トイレに行って見てこい”と言われたんだ。それはトイレにプラスチック爆弾が仕掛けられていないかどうかを見て来いということなの。そのときは無かったけど、その数日後、オーストラリアからのダンサーがショーをやってる最中に爆発があって、ステージごと吹き飛んじゃったことがあったんだ。ベトナム人の基地従業員が、仕事をするふりして最前列のテーブルにプラスチック爆弾を仕掛けて爆発させたらしいの。

——……。

それは絶対にベトナム人じゃないと出来ないし、やらないこと。だから、誰も信用できなくなるわけ。そういう状況なわけだから、本当は絶対に許されることじゃないけど、アメリカ兵が女や子供を殺してしまう気持ちもわからなくもない。絶対に良くないことなんだけれどもね。基地の周りはね、建物もなにもなく原っぱが広がってるだけで、基地で働くベトナム人女性は、ここではきれいな水が出るから言いながら基地のトイレで食事を作ったりしているし、5つか6つの孤児達は原っぱで輪になってタバコを喫いながら博打をしていたりする。テレビで見たことはあったけれど、実際に見るとびっくりするよね。戦後の日本もああいうものだったのかもしれないね。

——そんな中で、歌を歌うということはどのようなものなんでしょう?

ひとことでは言えないけれど、やっぱり壮絶な思い出として残っているわね。戦地というのはみな極度の精神状況だから、本当に殺伐としているわけ。野戦病院で歌ったりしたこともある。そこで倒れている人達はもう怪我がひどくて拍手もできないんだけど、目を潤ませて感謝の気持ちを表してくれたりするんだ。胸が熱くなって、最後まで歌い通すことが出来なかったね。











(2)

——私(小山)とトミさんが初めて一緒にステージに立ったのはいつ頃でしたっけ?

10年ちょっと前頃...「りぶる」だったかな? そこにあなたが手伝いに来ていて、ある時一緒にステージに上がって歌ったのが最初だったかもね。「アルプスの少女ハイジ」をやったんだけど、受けるんだよね。親子がやってるみたいでね(笑)。私がハイジのお母さんで、あなたがハイジ。店員のエプロンをかけたままでステージに出ちゃっていたわね。ああいう歌を歌うときにはかわいい声を出すのよねえ。

——(笑)普段は違いますか?

かわいい声だけじゃないじゃない? アルバム『NOMMO』を聴いたけどさ、あなたはいくつも声を持っているような気がするわね。わざと自分で面白く歌ったりしていてね。昔あなたが「リンゴ追分」を歌ったのを聴いた時はショックを受けたのを覚えてるわよ。あの「リンゴ追分」がこんなふうに変わるもんかって(笑)。

——すみません……。

ううん違う違う、あなた、すごいわよ。あなたにかかるとよく知ってるものがもっと違うものになっちゃうのよね。普通は使う音って決まってるの。でも貴方はえっ?!というような音がポーンと出てくるのよ。不思議な人だなとは思ってね。だからと言って普通の歌は歌えないのかと言えば、「アルプスの少女ハイジ」の時なんかは、普通に素直に、ホントに童謡みたいに歌うの。なのに、他の曲になってくると違う。あまりこういう歌手はいないよね。あんた、頭の中どうなってんのよ(笑)

——(笑)

頭の中をいっぺん見てみたいわね(笑)。この才能はどこから出てくるんだろうと思った。私なんかは考えもつかないね。でもこれは、あなたが若いからってことじゃないな。発想の問題ね。

——うーん、発想ですか?

だってさ、「MARIMBON」だって、おじいさんが亡くなって、お骨とお骨とを当ててみたら、音楽的に面白い音がする、だから今度の曲にそれを入れたというんでしょう? そんなこと、あなた、普通考える? 骨と骨を当ててみたらなんて、人間としてどうなのよ(笑)。

——(笑)いやいや。あの音は一応備長炭なんですけどね、さすがに

確かに似てるかもね。あのね、昔、「骨まで愛して」という歌があったの。私はその当時、人間、骨まで愛せるのかな?とビックリしたんだけれどもね。でも、今なら少しわかる。本当に好きな人の骨だったら、今ここにあるもの全部愛しいと思うということなんだよね。だからあなたの「MARIMBON」の場合は、おじいちゃんが死んじゃって悲しいけれど、悲しんでる場合じゃなくて、その骨を使って、おじいちゃんに「私は元気で歌ってます」って天国に届くように音を叩いてるんじゃないかな、と、私はそう思って聴いてたんだけれど。

——おおおおお。

あなたの考えてることや感覚的なことは、なんとなく、私には理解できる。私もちょっと変わってるんだよ。私も宇宙人だから(笑)。あなたと私は宇宙人かもね(笑)。だって音楽って、良い曲だとか上手いとかかわいいとか、そんな条件ばっかりじゃない? 今の音楽業界は、アイデアが変わってる人がいないのよ。作られたものをはいっと言って歌うという人ばかりでしょう? あの人達はあの人達なりの世界があるけれどもね。でも、あなたは、そういう人達とは違う世界を持ってる。だから、例え何を言われても絶対に気にすることもないし、他の人のような曲を作ることもないと思うわよ。

——ありがとうございます!

だって、あなたの方が、ずっと奇抜だからね(笑)。

——(笑)奇抜ですかね?

だって、あなたみたいな人が出てきたら、次に出てくる人は難しいと思うわよう。だって骨ぐらいじゃ済まないもんね(笑)。骨の後は血の海かなあ? それじゃなかなか音楽にならないねえ(笑)。世界中に音楽をやる人たちがいるけど、こういう発想はないと思う。あなたは世界に認められる可能性があると思うよ。個性が強いからね。

——ありがとうございます! 私は音楽の先輩として、トミさんにはお聞きしたいことがあるのですが、
日本で女性が音楽をやっていくことと人生の関係についてはいかが思われますか?

まず私の場合はね、歌を歌うということはごく自然なものだったの。まだ私が3つか4つの頃から、うちにはレコードとプレーヤーがあったのね。父親が言うには、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」とか、市丸さんの「天竜下れば」をかけろ、と言うと、まだ字も読めない私がちゃんとそのレコードを持ってプレーヤーにかけていたらしいのよ。

——それはすごい。

その頃から音に関することはわかっていたらしいの。だからね、私が勝手に自分で決めているのは、神様から使命を持って生まれてきたんだということ。神様が私に“あなたは歌を歌いなさい、歌って、世の中の人を幸せにしてあげなさい”と才能を与えてこの世に出てきたと思っているの。だから、私から歌を取っちゃったらなにもない。歌い続けることは、自分自身にとっても幸せなことなの。歌が歌えなくなったら死んだ方がいいと思うくらい。

——素晴らしいですね!

だからさ、指を骨折したときはほんとに辛かったよね! ギターが弾けないっていうのはさ。もうね、絶対に二度と転ぶもんかと思ったもんね(笑)。

——(笑)お身体大切にされて下さいよ。

そうね、もう転びたくないよね!(笑)

——(笑)でも、基本的にはトミさんは今もすごくお元気ですよね。ここまで元気でこられたコツはなんだと思いますか?

それはやっぱり、“歌うことは生きること”だからじゃないかな。私が歌を歌えなくなった時は心臓が止まったとき。息している限り、声が出る限り、歌っていこうと思ってる。

——なるほど。

あのね、長く続けようとして続いたんじゃなくてね、好きな歌を歌っていたらどんどん月日が経っちゃったの。10年経った、20年経った、今はもう50年が経ってるね。振り返るとびっくりするよね。でもね、“50年もよく歌えるわね”と時々言われるけれど、自分では50年歌ったとは全く思ってない。デビューも昨日のことみたい。当時と変わらない気持ちだわね。だからいつもステージに立つと、自分じゃ20歳……それはちょっと難しいかな(笑)、でも30歳くらいの気持ちだよ。

——トミさん、お若いですもん。

だって歌を歌うということは、毎回毎回が新鮮なことでしょう? ステージに立てば、今日は見たことがないお客さんが来てる。ああいう人達はこういうのが好きなんじゃないかな?こっちかな?とか考えるしね。私なんかステージの上から直接聞いちゃうからね(笑)。“あんた、どんな音楽が好きなの?”と聞くと“SMAP!”とか返ってきちゃうんだけど(笑)。でも“「アルプスの少女ハイジ」は?”と聞くと“知ってる!”とくる。そこから引っ張ってくるの。あのね、私は常日頃から“100歳まで歌います”って言ってるんだけど、私のファンって60代か70代が多くて、私が100歳の時に生きてる人が少ないかもしれないでしょ(笑)。そうなると、先の長いファンは大切だからね(笑)。一度、広島のステージで6歳、7歳、8歳の子がステージに上がったことがあったな。かわいかったわよ。私と客席のお客さんも含めて、本当に親子三代で音楽を楽しむことができる。それはもう本当に嬉しいことよ。

——トミさんは100歳を平気で超えちゃう気がしますよ(笑)。

(笑)そう思う? みんなに言われんのよ。だから若いファンをどんどん増やしていかないといけないの(笑)。若いファン達に、私が100歳になった暁を見てもらうの。1月10日が誕生日だから、その時にギターを持って歌っていたい。夢だよね。で、その1曲が歌い終わったら心臓が止まってもいいんだ。それで十分なの、私は。